polcaの可能性
フレンドファンディングのpolca を1ヶ月ほど続けています。
一万円を目標としていて、現在2000円支援してもらいました。感謝🙇
やはり何のご縁もない人から支援してもらうのは難しく、TwitterやInstagramにもあげましたが これまでの支援者は全員知り合い。
polcaでの資金調達のコツとかを検索してみても、やはり基本的なことしか載ってない…
知り合い以外からの資金調達は、従来のクラウドファンディングが向いているということでしょうね。
まだ一ヶ月弱時間があるので、各種SNSを使ってもう少し粘ってみます!
5000円くらいは集めてみたいなあ。
支援してくださるという稀有な方はこちらから▼
https://polca.jp/projects/JUNlDuN9489 #polca
少しお話しすると、今回の資金調達で東京観光をやりたいのです!
浅草観光したり聖地巡礼したりライブ観たり…
https://kouteisan.com/travelguide/NZYRWQcnkWsXmenKRugAwwxsajirgAAw.html
観光自体は行くことが決まっているので楽しみです!
レポもお届けする予定🎵
大学って何だ
Facebook開いたらイケハヤさんがこんなことを書いてましてね。
この「大学での学び」ってのが最近私が悶々と考えていたことだったので、衝動的に更新遅れがちなブログを更新するに至ったのです。
もう大学に入って3年半以上経過したわけですけども、
「大学で得たものって何だ??」
と私は考えるわけです。
大学生という身分で長いことやってきて、温室のような環境でぬくぬくと過ごし、「奨学金」という借金の恐ろしさも十分に知らないままこれまでやってきたわけです。
(ま 「奨学金」という話題でも書きたいことがたまってるので、それは今後の記事ニ而。。。)
大学生って人生最大のモラトリアムですよ。少なくとも私の人生の中では。
一人暮らしで親にも束縛されず、
「奨学金」やらバイト代を好きなことに使い、
もう十分な大人でありながら「大学生」という免罪符を使って責任逃れができる。
以前、「大学に行く意味って?」というテーマで人と話す機会があったんですが、
その時も私は「大学生という肩書き」について主張いたしまして。
やっぱり便利なんですよね。この肩書き。
もう半年後には学割使えないんだぜ、俺。考えらんない。。。
自己紹介の時
「ぼく○○大学の2年生なんですー!」
と告げるだけで、
・おおよその インテリレベル
・おおよその 人となり
→大学ごとに集まる人の特徴がある(経験則)
・おおよその 大学生としてのレベル
→学歴で人を語るのはもう古典レベルだと思うんだけど、やっぱりFラン大学とかはあるわけで。
を周囲に伝えられる。
さらに
「○○学部です!」
と加えれば、
・おおよその 志向性
・おおよその 思考法の特徴や性格
→大きな枠で言うと文系・理系の区分がわかりやすいか。経験として文系は感情で動き、理系の人は理性で動く印象。
・おおよその 将来目指しているもの
も伝わるだろう。
社会人
「わたくしは○○商事の営業をしておりまして、まず弊社の事業内容が■■と△△でして。。。わたくしはその中でも××の業務を担当しております。特に◇◇業界は最近好調でしてねーーー」
大学生
「○○大学■■学部で、△△の研究をしています。」
といった感じで大学生は端的に自分を表現できる(若干や 大仰)。
てな感じで大学生という身分は特権階級かってくらい魅力的なもんなんです。
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少しわき道に逸れてしまったけれど、言いたかったのは
・大学生というのは人生最大のモラトリアムである
・こんなぬるま湯に浸かっていては未来ある若者が腐ってしまう←特にこっち
の二つ。
だって4年だぜ。長い人は院やら留学で軽々プラス1-2年するだろうし。
こんな長い期間ぬるま湯に入れられてたら、溶ける寸前までふやけちゃって、
大きな志もなく大学に入ってしまった私のような学生は人生の迷子になっちゃう。
「揺るがない夢」や「高等教育を通して得たいもの」っていうのを持たずに大学進学してしまう 私のような人たちって、
けっこうな数いると思うんですよね。。。
『親が大学ぐらい行っとけって言うから。』
『就職を考えると大卒の方がいいかと思って。』
まあ人によって大学に持つ考えやらエピソードは様々だとは思うけど、
誤解を恐れずに言えば「人生の選択を先延ばしにするために」大学に来るのは危険ですよ。
私がいい例です。
人生の猶予期間を得るために大学に来るぐらいなら、自分が何を学びたいのか確固たるものがないのなら
高卒で地道に働いた方が賢明ですよ。
大学で学ぶこと以上に就業の中で得られる経験ってのは膨大だと思うんだ(まだ働いたことないんだけど)。
社会人経験した後に大学行ったり海外留学したりなんて個人の自由なんだから、自分の信じる方に進むべきなんだよなあ。。。
ゆるやかな野望
安定した収入が得られるように(社会人に)なったらやりたいことを考えるようになった。
クラウドファンディングや寄付に収入のいくらかを充てたい。
支出の1つに「寄付枠」を設けたい。
毎月支払うタイプとクラウドファンディングなどの1回ずつ支払うタイプを複数。
リターンがあってもなくても、何かに寄付するというのは心が豊かになるんじゃないかと思う。
まあ寄付した しないっていうのは誰かに言うもんでもないだろうけど…
“ヨッピー:これを僕は、「消費する趣味」と「生産する趣味」と呼んでいます。みんな消費に偏重してるんですよ、いま。これを生産につくり変えればいいだけです。発信をくっつけることで生産型に変わるんですね。”
「生産する趣味」という言葉が印象的なインタビューだった。
投資とか寄付も金銭を「消費」してはいるんだけど、何かを生み出す流れに寄与するという意味では「生産」とも言えるのではないか。
この記事を読んでから生産する楽しさについて考えるようになり、仕事もやっぱりそこがないと続かないだろうなと考えるようになった。
付加価値のつかない仕事はAIに任せたらいいので、人が担うのは因果関係をもとにした情報処理やクリエイティブな仕事になるんだろうな。
仕事という概念自体が将来的には趣味のような位置、やってもやらなくてもいいもの になるだろうから、そんな時代でも仕事を続ける人にはそこに生産する楽しさがあるんだろう。
だったら尚更今の仕事を考える上でも、生産する楽しさを重視するべきではないか。
まあ結局 お金の使い方も仕事への考え方も働き出すと変わっていくんだろうなあ…
金欠学生はお金が欲しいのです。
そのままの言葉をつむぐ
今日からブログを始めた。
SNSではどうしても読まれることやコメントがつくことを前提として書いてしまうので、ここは自分が自由に想いを発信できる場として使っていきたい。
突然だが、最近は変化を成長として捉えられるようになっている。
「あの人、変わっちゃったよねえ…」
というマイナスな変化も中にはあるわけだが。
「変化」というのは学生時代に何度も考えてきた概念で、私の中では一種の命題のようになっている。
私はこだわりの強い人間だから、一度決めたものをコロッと変えるというのは好まないし苦手である。
かといって
周りがスマホをサクサク使っている中、不便さを感じながら意地になってガラケーを使い続ける
というのも何だか違う気がするのだ。
私自身 今年の4月まで「ガラホ」だったわけで、Android搭載でありながらほとんどのアプリが十分に対応しない機種を使い続けていた。
「周りはスマホの中で俺はガラホを貫いている!どうだ、カッコいいだろ!」
という希少性を味方につけた自分よがりのプライドがそこにはあった。
契約の2年縛りのせいというのはただの建前だったわけだ。
もう そういう不要な意地の張り合い要らなくね…
というのが今回のエントリーの主旨である。
他者との間で意地の張り合いをするならまだしも、自分の中で天使と悪魔を闘わせるのは不毛にも程がある。
恐らく私の中の天使も悪魔も、
いつ争いをやめるか…
兵力はとうに限界を超えているが、こちらから降伏するのはどうも周りに示しがつかん。
相手が降参するまでは何としてでも戦い続けるのだ。
といった やめるにやめられない状況にあっただろう。
そういうの今日から全部やめ!
前言撤回したなら振り向かず進み続けるべきなのだ。
心のモヤモヤとか周りの目を振りはらって。
前言撤回だって何度でもすればいい。
昨日の自分はもう既にいないし、明日の自分は三度方向転換をするかもしれない。
「今」考えていることが自分のコンパスとなるなら、それを信じなくてどうする。
変化を怖がらないことがこれからの私の目指すところ。
こだわり っていきすぎると 頑固 になってしまう。
口だけが達者な頑固親父 ってカッコ悪いから、最近は しなやかな親父 を目指している。
(まだ20代だけどね)